叔父が死に、久しぶりに海辺の町を訪れた。何処にいても海の気配が感じられるその町は、太陽の光も強い。五月始めの日差しが、車から出た途端眩しく感じられた。気の早いサーファー達が、朝の波乗りから帰ってくる姿もちらほら見られた。
 叔父は母の兄にあたる人物で、母の生家である古い家で、今は一人で暮らしていた。近所に叔父の妹、母の姉にあたる叔母夫婦も住んでいる。ありがたいことに、葬儀の事務的な手続きはその叔母が片付けてくれているようだった。
 叔父は六十を少し過ぎた歳だった。まだ若いが、晩年に不遇が重なってお酒を呑むようになっていた。死因は心臓麻痺だったが、遠因にはそんなことも関係していたのだと思う。セレモニーホールという名の葬儀場で棺に収められた叔父と対面したが、昔の印象より痩せて見えた。花と、写真と、好きだった缶珈琲が供えられていた。
 通夜は行わず、翌日に告別式だけを行うということだった。母方の血は、さっぱりした性格の人が多い。
 叔母の所で話し込み、その夜は母と一緒に母の生家に泊ることになった。叔母と母が昔話をしている。途中から叔母が涙声になる。
「ほんとに、頭が良くて、格好が良い人だったんだから」
 お茶を淹れようとした叔母の手が微かに震えているのを見ながら、故人の思い出を聞いた。聞いていると、幼い時に見た叔父の姿が、段々と甦ってくる。
 確かに叔父は、格好が良かった。身長は百七十センチくらいだろう、取り立てて大きいというわけではなかったが、細身の身体がスラリとした印象を見る人に与えた。豊かな癖せ毛で、何より印象的なのは目だった。骨ばった顔に開いた目は、何かを見透かすように静かに、でも良く動いた。口数は多い方ではなかったが、言う事はいつも鋭く、社会的な知識が豊富で、知的なユーモアのセンスがあった。犬が好きで、昔母の家で飼っていたタロウという名のシェパード犬を散歩に連れていっていた時などに海岸を歩いている姿は、子供心にも絵になった。遊びに行った時などは、よくその散歩に連れて行ってもらった。
 「また食うのか?」
 そう飽きれながらも、せがむと途中の駄菓子屋でお菓子を買ってくれた。
 タロウも叔父と、良く心を通わせていた。シェパードは大型犬だが、叔父は海岸に人が少ない時などは、綱から放して好きなようにさせていた。それでもタロウは、叔父が呼べば必ず戻ってくる。叔父の意向を良く汲んで、他人に悪戯もしなかった。
 「まったく、タロウは誰かと違って、食い意地がなくて偉いよなぁ」
 バーベキューの残り物などがあっても手を出さないタロウを褒めながら、叔父はこちらを向いてニヤリと笑うのだった。

 母の生家は築六十年は経っている。そう広い家ではない。
 建て付けが悪くなっていて左右がぴったり合わない門を抜けて、中に入る。かつてタロウがいた庭は、叔父一人ではあまり手入れも出来なかったのだろう、雑草が生え始めていた。建物は平屋で、中は洋風の造りになっている。玄関を入ってすぐ左手が叔父の使っていた十畳程の洋間だ。玄関から廊下が伸びている。廊下の右手にはトイレと風呂場があり、左手はかつて母の両親が使っていた寝室がある。今は物置代わりになっているということだった。突き当たりがキッチンになっていて、そこを左に折れると、居間になる。今夜は叔父の居た玄関脇の部屋を使わせてもらうことにした。
 叔母の家を辞したのが、夜の九時過ぎだった。途中スーパーに寄り、朝食用の食料や、慌しく出かけたため持ってくるのを忘れていた歯ブラシなどの日用品を買い込んだ。結局母の生家に着いたのは十時に近い時間だった。
 着いてすぐ、母は父に、携帯電話をかけ始めた。何を話し込んでいるのか、荷物を運び込んでも電話は終わらないようだった。手持ち無沙汰だったので、キッチンでお茶を淹れた。
 当時は洒落た作りだったのだろうが、家には六十年分の歳月の跡がいたる所に見て取れた。柱は黒ずみ、廊下は歩くと音を立てた。壁の落書きを見て、書いた時に怒られた記憶を思い出す。ガスを止めると静かで、何か話している母の声が良く聞こえた。二人分の紅茶を淹れる。食事用の椅子に座って、ここで一人で暮らしていた、叔父の生活を想像した。
 突然、短い母の悲鳴が聞こえた。玄関脇の、叔父の使っていた部屋からだった。
 「ええ、何でもないの。だいじょぶ。おっきなクモがいたのよ。うん、もうどっか行っちゃった」
 部屋まで行くと、母はまだ電話で話しをしていた。
 「多分この家のヌシね。手の平くらいの大きさがあったわ。あーびっくりした」
 そう言って母はクスクス笑った。
 叔父が使うようになってから、この部屋に入るのは初めてだった。ドアを入って正面に、庭の見える出窓がある。出窓の下には大きめのソファが置かれ、それに対するように壁際にオーディオシステムが設置されていた。壁に作り付けの棚には、時代物の文庫本やビジネス書、それに大判の美術書などが並んでいる。壁には、大きな岩がいくつか転がっている、砂漠とも海岸とも取れる不思議な絵が掛かっていた。絵の中では、岩の隅に白い布が引っかかっていたが、あるいはそれは布をかけられた人間のようにも見えた。しかし最も目を惹いたのは、オーディオシステムの上に置かれた、ボトルシップのコレクションだった。
 ボトルシップは小型のヨットから豪華客船のような大きなものまで、全部で九つあった。ボトルは全て台座に固定され、台座にはその船の名前と思しいアルファベットが、プレートにして嵌め込まれている。どのボトルの中にも、どう考えても口を通らない大きさの船が、当然のように鎮座していた。オーディオシステムの上には、左右のスピーカーからアンプの上まで、それらのボトルシップが整然と配置されている。壮観だった。
 注意してみると、中に一つだけ壊れている船があった。台座には「SNARK」というプレートが嵌っている。ボトルの大きさからすると小型の船のようだったが、中身はばらばらになっていた。マストが折れ、船体はかろうじて原型が想像できる程度の木切れになっていた。
 「うん、じゃぁ明日の十時に」
 そう言って母が、やっと電話を切った。

 夜の闇の中で目が覚める。隣の布団からは、母の寝息が聞こえる。
 部屋の中に誰かがいると気が付いたのは、時間を知ろうと身を起こした時だった。闇に慣れ始めた目に、オーディオシステムの前に屈み込んでいる人影が見えた。叔父だった。特徴的な細身のシルエットでそれは分かった。叔父はボトルシップを見て回っているようだった。いくつかのボトルシップを、屈み込んで眺めていた。やがて、そのうちの一つのを台座から外し、開け放してあったドアから部屋の外へ出て行った。叔父が持っていったのは、あの壊れたボトルシップだった。
 だが確かに叔父が持って出たにも拘らず、ボトルシップは全てが揃っていた。静かだった。叔父の動きには、音が全く伴っていなかった。それでやっと、今見たのが過去の叔父の姿なのだということに気が付いた。一瞬母を起こそうかと迷ったが、そのまま布団を抜け出して叔父の後を追った。
 叔父は急ぐでもなく、廊下を歩いていく。トイレも風呂場も通り過ぎ、そのままキッチンを左に折れて居間へと消えた。十年ほど前の姿ではないかと思う。豊かな髪の毛には白いものが大分混じり始めていたが、まだ痩せた印象は感じさせなかった。綿のパンツは薄い茶色で、白いポロシャツを着ている。そのまま散歩にでも行って来る様な雰囲気だった。手に持ったボトルシップの中の船は、まだ壊れていない、完全な形を保っていた。帆付きの、小型クルーザーのようだった。
 キッチンまで行くと、風が入り込むのが感じられた。昨夜小窓を少しだけ開けておいたのだ。紛れもない海の匂いが混じっていた。懐かしい匂いだった。磨りガラスの隙間から、空が白み始めているのが分かった。
 キッチンからドア越しに居間を見た。叔父はマッサージ器の前に立っていた。マッサージ器はクッションの効いた高級な椅子のような作りだった。背もたれに当たる部分に、振動する球のようなものが埋め込まれていて、脇にあるスイッチで好みの場所に移動させてつぼを刺激する仕組みになっている。ボトルシップがそこに置かれていた。背もたれと座面が作る「く」の字の窪みに挟まれる形で、ボトルシップは震えていた。
 叔父の視線の先で、ボトルシップの中の船は壊れていった。マッサージ器の振動で、船底とボトルを繋いでいた糊が徐々に剥がれていく。船はしばらくグラグラと揺れているだけだったが、船底が完全に離れてしまうとボトルの中をなす術無く飛び回り始めた。その度にマストが折れ、船体はばらばらになっていった。
 光が、いつの間にか差し込んでいた。太陽が昇り始めたようだった。東を向いているキッチンの窓から入り込んだ光線は、居間のドアを抜け叔父の所にも届いていた。叔父の姿は光の中で霞み、明るさが増す毎に消えていった。
 すっかり太陽の光に照らされた居間には、もう誰の姿も見えなかった。もちろんボトルシップも見当たらず、マッサージ器は埃をかぶったままだった。

 告別式が二十人程の親族だけで行われた。式の後、再び母の生家を訪れた。何故か気になって母の言っていた大蜘蛛を探してみたが、何処に行ったのか、見つけることはできなかった。

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