ある死
 僕には未だ、あの時の事を鮮明に思い出される。
 弱々しい光に映し出された岩壁。早足で歩くたび、風圧で揺れる影達。ぬめりとした石灰岩の手触り。足元を流れる水流。反響する水音。カーバイトが焦げる独特の匂い。
 遠くで振り返った彼女の光。
 まるでその場面だけ切り取ったように、僕は思い出せる。忘れられない。
 自分の中でもまだ、整理がついていない。僕にとってあの時の事がなんなのか、どういう意味を持つものなのか分からない。それは分かる分からないという種類の話ではないのかもしれない。ただ一つだけはっきり言えることは、僕はあの光景を、あの場面を死ぬまで忘れないだろうということだ。
 ある死の話しをしようと思う。
 奇妙な死の話だ。

 冬休みを利用して、僕らは洞窟に潜りに行った。
 僕らというのは大学の探検部のメンバーのことだ。僕はそのころ大学の2年生で、探検部というものに所属していた。休みを見つけてはどこかへでかけて、山に登ったり、川を下ったり、あるいは平家の落ち武者の埋蔵金を探すといってあちこちほじくり返す。そいうことばかりやっていた。
 その冬はめずらしくちゃんと冬らしくて、とても寒くて、特に僕らが行ったO県の山の上など、夜になると文字通り凍えるほどだった。
 中国山地に広がる石灰岩質の台地には鍾乳洞がたくさんある。有名な秋吉台もそのうちの一つである。雨が地中に染み込み、石灰岩を溶かし、広大な洞窟を形成するのだ。というようなことを、行きの車の中で、大学院に行ったOBの先輩が話していたのを覚えている。
 ともかく、山の上のもう使われなくなった工事のプレハブを借りた僕らの宿は、本当に寒かった。僕らはほとんど無謀とも思えるほど車に荷物をつんで、炬燵を持ち込み、ストーブを持ち込み、ついでに山ほど酒を持ち込んでその寒さに耐えた。
 当然、夜は大宴会となった。周囲には畑と林と農家がぽつぽつとしかないのだから、夜になって遊ぶような所は何もない。酒を呑んで大騒ぎする位しかやることがないのだというのも一つの理由だった。周りが静かで本当によかったと思う。よくもあれだけ騒げたものだ。洞窟に潜りくたくたになって帰ってきて、ご飯を食べたら大騒ぎをして体力を使い果たし眠る。この繰り返しで毎日過ごしていた。
 肝心の洞窟は素晴らしいものだった。中は広大だったし、様相が千差万別だった。僕らは毎日そこに入っては岩をよじ登り、地底湖を泳ぎ、新しい支洞がないか探し回った挙句、壁からずり落ちたりしていた。作業用のつなぎにヘルメット。頭にライト二つ。化学反応で小さな炎を起こすカーバイトと、予備用の小型ライト。予備食や救急用セットの入ったザックを背負って、僕らは這いずりまわった。時には照らしても壁が見えない程巨大なホールがあり、時にはザイルがないと降りられない深い落ち込みがあった。
 洞窟の中というのは、別世界だった。
 太陽光とは比べ物にならないほど弱々しい光に照らし出される光景は、あきれるほど荒涼としたものだった。そこに生物の気配はほとんど感じられず、ただごつごつとした石灰岩が、照らし切れない闇の奥へと広がっていた。ライトを消すと、そこは真の闇だった。自分の目の前に手をかざしてもそれが見えないというのは、実際体験してみると相当奇妙なものだ。おもしろがって全員一斉にライトを消すと、何故だかみんな黙りこくってしまうのだった。どこかでごうごうと地下の水流が流れる音だけが聞こえていた。
 二十人近くいたメンバーの中に、一人の女の子がいた。アキコという名前のその女の子と、僕はそれほど親しくしていたわけではない。笑うと可愛い彼女は、宴会の時みんなの中心にいて、僕はどちらかといえば、それを少し外れて見ているようなやつだった。
 ただ寝る場所が、僕と彼女は隣同士だった。毎日寝袋に入って眠る時には、狭いプレハブ小屋の中で雑魚寝になる。自分の寝袋は決まっているから、始めの日に並べた順に基本的には寝ることになるのだった。だから僕は、その合宿のあった二日か三日の間、寝る時は必ず彼女の隣りになった。
 毎日夜酒を呑むのに、彼女は最後まで付き合わされていた。僕が早々と寝袋に潜り込んでいるとよく、彼女が寝袋に入る音で目が覚めたものだった。男達に取っては、彼女はからかいやすい性格だったのだろう。車座になってプレハブに敷かれた畳に胡座をかきながら酒を呑んでいる時、何か意地悪をされている姿をよく見かけた。彼女はそれに反応する時にも明るく元気だった。そしてよく笑った。性的な意味を含むかどうかの境界線にあるようなじゃれあいにも、全く屈託なく、気付かずに応じていた。あるいは気付かずに応じているように見えた。毎夜、酔っ払って顔を真っ赤にしながら、静かになった部屋の中、彼女は一人で寝袋に入るのだった。ふと目覚めて寝ながら見上げる彼女の顔は、僕には何か、騒ぎ過ぎた時のものとは違った疲れがあるように感じられた。
「大丈夫?酔っ払ってる?」
「おうよ!酔ってるよ〜。だめだよ優君も、もっと呑まなきゃ。」
 僕が問いかけると、彼女はそう言って静かに笑った。僕と彼女が口を交わすのは、せいぜいこの程度だった。
 だがたった一度だけ、僕は彼女からちゃんとした話しを聞かされたことがある。彼女が死ぬ、前の夜のことで、それがつまり、僕が知る限りにおいての彼女の最後の言葉だった。
 合宿の最終日に、僕らは素晴らしい滝を見つけた。洞窟は地下水によって形作られるので、水とは切っても切れない関係にある。地下にも、滝というものがあるのだ。といっても、カーバイトが起こす小さな炎の、揺れ動く光の中に浮かび上がったその滝は、それ程大きなものではなかった。高さにすれば3メートル足らずだろう。滝というよりも、落ち込みと言った方がぴったりなのかもしれない。僕らにも楽々とよじ登れることができた。ただ、洞窟の中に、水道の蛇口を捻ったように勢いよく水が流れ出ている様は異様であったし、それは神秘的と言った類の言葉で形容すべきような印象を、我々に与えていた。外界では何ということもない風景が、洞窟の中という特殊な環境に置かれることによって、何か全く別の意味を持った存在に変化しているように思えるのだった。新しい支洞で、我々が世界で初めてその光景を目にするのだということも、興奮の一要素になっていたのかもしれない。
 上方から噴き出した水は、我々が辿ってきた道からまた一段低くなった場所に滝壷を作り、そこから、真っ暗でどこに続くとも知れない穴へ地下水流となって流れ込んでいた。冬だというのに結構な量で、人一人が、這ってなんとか通れる程度の大きさのその穴は、常にほとんど水流で洗われているのだった。僕らが順番に覗き込んでも、貧弱なライトの光が入り口の周辺と飛び散る水飛沫を照らすだけで、奥の方はまったくの闇に包まれていた。ただごうごうと水の流れる音だけが、うるさい程の反響を伴って聞こえていた。
 その夜の騒ぎは、いつにももして大変なものであった。新しい滝の発見もあったし、また合宿最後の夜だということも大きかった。みんなは残った力を使い切るようにして騒ぎ、呑み、騒いだ。残った酒を無理矢理消費するために一気が繰り返され、べろべろに酔っ払った挙句、お決まりの探検論を語り出したりするのであった。その日はさすがに僕も突き合わされ、吐くまで呑まされた。プレハブの裏の林で一人、涙を流しながら吐いた後で見上げた空には、星空が輝き、凍りつくように寒い空気の中で、僕らが発する宴会の音だけが周囲の静寂をより一層際立たせていた。
 その日は、寝袋に入ってもなかなか寝つけなかった。体内のアルコールを出してしまったことで、酔いはほとんど残っていなかったし、食べた物も戻してしまったので空腹だった。体は疲れて休息を欲しているのは分かるのだが、神経が冴えてしまっていた。明け方近くで、あるものは寝袋のなかで、あるものは力尽きて倒れ込むように、ほぼ全員が寝静まっていた。
「優君起きてる?」
 彼女がそう話しかけてきたのは、そんな時だった。彼女の声は、呑み過ぎた酒のせいで少しかすれていた。顔だけを捻って彼女のほうを見ると、彼女は闇の中で天井を見ているようであった。
「私ね、時々思うの。こういう風にね、洞窟に潜る合宿に行くといつも思ってることがあるの。」
 彼女は、返事をしない僕にはお構いなしに、小さな、静かな声で話し始めた。
 その大きさを除けば、彼女の口調に別段変わった所はなかった。彼女はその先に何かわくわくするものがひそんでいるように、おかしそうにしゃべった。それは彼女の普段の振る舞いと、どこかで共通するようなしゃべり方だった。素敵なものがその話題の先に現れる。そんな期待を抱かせるようなしゃべり方だった。彼女は普段そういう風に話しをしたし、今もその通りにしゃべっていた。僕は黙って暗闇の中、影絵のように開閉する彼女の唇を見つめていた。
「だからね、今日みたいに洞窟の中の滝を見たとするじゃない。それで夜寝る時になって目をつぶるとね、その滝が思い浮かぶの。…だからね…、つまりね、こうやって私が寝てる時も、起きてても、ご飯食べてても、大学の授業を受けててもなんだけど、あの滝は今この瞬間も落ちてるの。あの真っ暗な、ほんとの暗闇の中で、今この瞬間にもあの滝はごうごう音を立てて落ちてるの。そう思っちゃうのね。そう想像するとね、すごい、ほんとにすごい不思議な感じがするんだ。」
 それっきり彼女の話しは終わってしまった。
 あるいは、彼女は僕の返事を待っていたのかもしれない。でも僕にはその彼女の話しに対して、何も返事をするような言葉が見つからなかったし、その時は、彼女が返事を期待して話しているのではないように感じられたのだった。
 誰かの鼾の音と、寝返りをうつがさがさという音が聞こえていた。僕はいつのまにか眠りに落ちていた。

 翌朝、彼女はいなくなっていた。
 僕らが起きた時には、彼女の寝袋はもぬけの空だった。始めは散歩にでも行ったのだろうと言っていたのが、車が出る時刻になっても戻ってこないので、にわかに騒ぎになった。調べてみると、彼女の洞窟装備がなくなっていた。ただちに捜索隊が組織され、幾班かに分かれて、また洞窟に入ることになった。
 僕が参加した班が例の滝に着いた時、彼女はまだそこにいたのだった。
 いつからそうしていたのか、彼女はじっと滝を見上げていた。赤い色のつなぎと、小柄な体格で、僕らはそれが間違いなく彼女だと分かった。
 僕らが立てる音と光に気がついて、彼女は振り返った。補助用のライトが点けっぱなしになっており、その光が僕らの目を射た。
「アキ!」
 班のリーダーのOBが、少し怒ったような口調で呼びかけた。
 首を動かしたのか、彼女の光がふらふらと揺れたが、彼女は何も言葉を発さなかった。
 そして彼女はためらいなく、滝壷から水が流れ込んでいるあの穴に、足の先から滑り込んだ。あまりにもあっけなく、自然な動作だった。流れ落ちる滝の音に混じって、彼女が立てるびちゃびちゃという音が周りの壁に反響した。しばらくの間、それが本当はどれくらいの長さだったのか僕には分からないが、彼女の補助用ライトの光が、白く泡立つ水流を通してちらちらと見え隠れしていたが、やがてそれも消えてしまった。
 始め僕らはみんな、何が起こったのかよく理解できなかった。まさか彼女がそんなことをするとは、誰も思っていなかった。始めにリーダー駆け出し、それによって僕らはやっとことの次第を理解した。
 彼女は自殺したのだ。

 結局彼女の遺体は発見できなかった。
 ザイルを使って何度かあの穴に潜り込むことが試みられたが、水流が強すぎていずれも失敗に終わった。穴の周りの壁を破壊してなんとか安全に入ることができないかも試されたが、穴は思ったより長く、いくらか広げた所で彼女を発見できるとは到底思えなかった。彼女はどことも知れない地底の闇の底へ流されて行ったのだった。
 大騒ぎになり、その洞窟が入洞禁止になるというような話しも持ちあがったが、僕らの証言で、それが彼女の自殺だということに話しが落ち着き、何とかおさまったようであった。
 部活動はしばらくの間自主的に休止になった。遺体がないまま葬式が行われ、彼女の両親は「どうして彼女がそんなことをしたのか理解できない」と言って、泣いた。
 部の活動が再開されても、僕はそれ以来洞窟には行かず、カヌーで川を下ったり、無人島に行ったりして、残りの大学時代を過ごした。

 僕は今でも時々思い出す。あの夜彼女が言ったことについて考える。
 そう、たとえ僕がどんなことをしていても、あの地の底の滝は流れ落ち続けているのだ。あの真の闇の中で、彼女を呑み込んだその滝は、誰に見られることもなく、ごうごうと音を立てて流れているのだ。僕とは無関係に、しかし確実に、あの滝は今この瞬間にも存在している。流れ落ち続けている。
 僕にはそれを、鮮明に思い描くことができる。

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