下川数景
 紀州線、川沿の駅で電車を降りた。午前十時の四月の陽の光の中、僕は一人だけ無人駅のホームに取り残される。電車はのんびりと去っていく。どこかで鶯が鳴いている。
 川下り用ガイド「リバーマップ55」の指示通りに荷を運んだ。背中に分解して折りたたんだカヌー、正面にキャンプ用具の入ったザックを背負う。片手にはガムテープで束にしたセパレートのパドルを持つ。知り合いにはあまり見られたくない姿だ。
 「リバーマップ55」で出発地点となっている七尾橋から、川を見下ろした。上流にはダムが見える。下流にはザラ瀬が一つ、その先はカーブで見えない。
 橋の上からでも川底が見えた。水は澄んでいる。「右岸から川原に降りる」となっているが、荷物を運ぶのが事なので、左岸からの道を探した。小さな電気屋の裏手から、車では降りられない道が延びていた。
 川原まで降り、カヌーを組み立て、荷物を積み込み、舟を川面に押し出す。午後十二時五十分だ。

 ロデオの瀬も野方の瀬も無事に越えた。仲川大橋近くの消波ブロックも切り抜け、後は目立った難所はないらしい。日の入りが午後五時半なので、余裕を持って一時間前の四時半には岸に上がりたかった。目算で宮の原公園までは下れると踏んでいたが、どうもそこまで行けそうもない。今夜テントを張るのは、仲川大橋から外城大橋の途中の川原になりそうだった。

 深い淵の底から何かが浮かんできたのは、長間近くでの事だ。
 流れが穏やかになり、緩いカーブを描く十五メートル位の淵に差し掛かった。夕方が近くなって出始めた虫の多さに辟易し、パドルを漕ぐ手を止めふと下を見る。淵の水は水深が下がる程次第に緑を増し、川底は見えない。相当に深い瀬だろう。深みから岩が隆起し、そのまま水面から突き出て見上げるほどの崖になっていた。といってもカヌーの上からの話しで、実際は三メートル程だ。夏に飛び込んで遊べ、楽しいと思う。
 その淵の底から、黒い塊が浮かんでくる所だった。
 慌てて一漕ぎし、カヌーの方向を変えた。ぶつかるのを避ける。塊は浮上を続け、やがてそれが髪の毛だと分かった次の瞬間、女の子の顔が水面に浮かび上がった。
 肩までの髪から水を滴らせている。線が細くなかなか美人だった。目が合ったので他に言うべき言葉も見付からず、僕は「こんにちは」と言った。
「こんにちは」
 と女の子も返す。続いて平泳ぎでカヌーの横を泳ぎ過ぎ、そびえ立つ岩に取り付いて見る間に登っていった。四月も終わりに近いとは言え、水温はそれ程高くない。女の子はウエットスーツを着込んでいる。手には何も持っていない。魚を突いているわけでもなさそうだった。
 女の子が何をしているのか、僕には見当もつかなかった。他に誰もいない午後四時の川で、多分二十代前半だと思う、女の子が一人で潜っているという状況は、ないとは言えないが奇妙なことだ。
「あの、大丈夫ですか?何か手伝いましょうか?」
 僕の声は、女の子に届いているか分からなかった。彼女の姿は一瞬、川面に浮かんでいるカヌーからは見えない、岩の影に消えた。僕を乗せたカヌーは、ゆったりとした流れに押され、すでに淵から出始めていた。
「平気です。昔落としたものを探しているんです」
 再び岩のてっぺんに姿をあらわした女の子がそう言った。僕は舟を止める理由も見出せず、そのまま流されて行くしかなかった。
 背後でドボンと、女の子が飛び込む音が聞こえた。

 テントを張ろうとした鮎川の川原では、地元の女子高生と思しい二人連れが、流木に腰を下ろして、何かを話し込んでいた。時折笑い声が風に乗って聞こえてくる。どこからどう見ても怪しいおっさん僕としては、彼女達からなるべく遠くの岸に舟を着けた。
 カヌーを川から引き上げ、テントを引っ張り出す。設営が終わった頃には、すでにあたりは夕闇に包まれていた。気が付けば、川原には誰もいない。

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