コウモリ
 さつきはよく自慰を見せられる女だ。
 バイト先の上司に車で送られた時にも見せられた。
 棚卸で手間取り、仕事が終わったのは夜十二時を過ぎていた。終電はすでに無い。さつきが勤めている薬屋の店長に、自慢の愛車で送ってもらえることになった。
 三十半ばの大柄な店長の顔には、連日の徹夜のためか無精髭が生えていた。そしてハイテンションだった。普段は大人しい印象の店長が話す下ネタを、さつきは疲れた頭で聞き流していた。運転が心配だったが、交通量も少ない夜の道だったので、不安になるようなことは無かった。
 無事アパート近くまで送ってもらい、礼を言って車から降りようとするさつきに、店長がさも話しの続きかのように言った。
「そうだ、さつきちゃんだけには特別に見せてあげるよ」
 何か温度が急に上がるような気が、さつきはした。またかと思う。
「僕のは本当に大きいんだから」
 さつきは念のため、こっそり後ろ手に車のドアを開けておいた。いつでも逃げ出せる用心だ。そうしている間にも店長は、自分の股間のチャックを引き下ろしていた。
 さつきには、特に大きいとは思えなかった。それでも店長は、自慢にますます熱を上げる。
「ホラ、ちょっと待ってね。こうするともっと大きくなるんだから」
 そう言って、自らそれをいじり始めた。
 こういう場合はどうするべきか。普通の人なら叫び声でも上げて飛び出すんだろうか。
 さつきはいつもの疑問を覚えつつも、曖昧な態度で店長を注視するしかなかった。そのまま襲いかかって来るようなことでもあれば、蹴り飛ばして逃げ出すが、幸いなことにと言えばいいのか、そんな気配は皆無だった。店長はただ、自慰を見せ付けるだけだ。
「いやー、すごいですね」
 もたなくなった間に、さつきは仕方なくそう言った。

「ってさ、また見せられちゃったんだよね」
 さつきがそう言うと、背後でリンが笑いに体を震わす気配が伝わってきた。顔を上げて目の前の鏡を見ると、
『お気の毒様。その後は?』
 と書かれたホワイトボードを片手に持って、可笑しそうに目を細めるリンの姿が目に入った。
「いや、別にそのまま。普通になかったことになってる」
 さつきは応えつつ、前髪の具合を確認した。良い感じだ。
「何なんだろうね。私、そんな変なオーラ出てる?」
 すでにホワイトボードから鋏に持ち替えていたリンは、また手を止めるのが面倒なのか、その問いに対しては肩をすくめただけだった。
「ほんとあいつら、何考えてんのか分からん」
 リンの鋏が後ろ髪に入るのを感じながら、さつきはシートに身を沈めた。
 リンは、口が利けない美容師だ。さつきの地元の美容院で働いている。どうしてリンが口を利けないのか、詳しいことをさつきは知らない。だがさつきがこの町に引越して来て、初めてこの美容院に顔を出してからずっと、リンはホワイトボードのみで客と「会話」している。
 始めは戸惑ったさつきだが、その内リンと過ごす時間が心地良くなった。リンは聞き上手だった。口が利けないこともあるが、生来控え目な性格なのだろう、あまり余計な「口」を挟まずに真剣に話しを聞いていくれる。リンと会っていると、さつきはのびのびと話すことが出来た。当然、自分の不可解な性質についても、事ある毎に相談している。
『さつきは優しいんだよ』
 リンはそう言ってくれる。
『自分と異なるものを、』
『異なるままに受け容れてくれる。優しいよ』
 果たしてそうだろうか。
 鏡の中の言葉を見ながら、さつきは考える。
 私は単に面白がっているだけな気がする。
 さつきは、そういう残酷な自分を知っている。自慰を見せる男達には、多かれ少なかれ必死さがある。自分を見て欲しいという切実な願いだと、さつきは思っている。熱のように感じられる、あれだ。さつきは単純に、それを面白いと思って見ている部分がある。
「でもさぁ、リンは自分のオナニーを誰かに見せられる?」
『絶対ムリ』
 リンの答えは、速かった。

 さつきが初めて他人の自慰を見たのは、高校二年の時だ。
 所属していたバドミントンの部活動が終わった後、さつきは忘れ物を取りに自分の教室に戻ろうとした。途中、閉まっていた他のクラスの扉を何の気なしに開けてみると、数学の教師が教壇の椅子に腰を掛け自慰をしていた。
 教師は昨年赴任してきたばかりの、まだ若い男だった。さつきの好みではなかったが彫りが深い顔で、生徒に対して公平な態度は密かに人気を呼んでいた。意外だった。
 最初慌てていた教師は、さつきが平静なのでやがて落ち着いた。実際は、さつきはそれなりにパニックに陥っていた。ただそういう時のさつきは、側から見ると分からないらしい。
「こういうことって、興味ある?」
 教師がそう聞いてきたのは、じっと見据えてくるさつきの視線を勘違いしたためだった。
 さつきが頷いたのは、反射的なものだった。ただ、実際に興味が無いわけではない。話しのネタになるなという打算も働いた。何かあったら、窓まで走って校庭の誰かに助けを求めようと素早く考えを巡らした。まだ外からは、サッカー部がボールを蹴る音が聞こえてきている。
 西日が差し込む教室で、さつきは初めて他人の自慰を見た。
 思っていたより、呆気なかった。成人男性の性器を見るのは最初ちょっと動揺したが、数分も経つと慣れてしまった。始め小さかったそれは手の動きに合わせて起き上がり、やがてまた元の大きさに戻った。後に残ったのは、丸められたティッシュだけだった。
「それじゃ、失礼します」
 面倒なことになる前にぴしゃりとそう言って、さつきは急いで教室を出た。自分の教室に置き忘れていた弁当箱は、結局置きっ放しになった。数学教師はさつき達が卒業した後、教え子と関係していたことが発覚し、クビになったらしい。
 以来、様々な人物が、さつきに自慰を見せていった。
 習っていたピアノの教師が、大学時代のボランティア活動で行った老人ホームの職員が、合宿に行った湖畔のペンションでゼミの先輩が、それぞれのやり方を示した。
 幸い、危険な思いをすることは無かった。自慰を見せる男達は一様に、自分の姿を見せるだけで満足するようだった。
 さつきが他人の自慰を見ている時考えるのは、コウモリのことだ。
 さつきには兄が一人いる。少し年の離れた兄は現在、三十代に手も届こうという年齢で、考古学の大学院に通っているはずだった。もう一年以上、顔も見ていない。
 さつきがまだ中学生の時、兄は大学生で、やはり考古学関係のゼミに入っていた。その頃にはまだ、兄に対して憧れがあった。両親とも働いていたさつきの家では、兄と二人で夕食を食べることが時々あった。そんな時、兄の話しを聞くのが、さつきは好きだった。
「この前、発掘で洞窟に入ったんだよ」
 その時の兄の話しは、そんな風に始まった。
 兄はゼミの発掘で、洞窟に入ったと言う。時期は二月で、真冬だった。良くやるなぁと、さつきは思った。
 冬の洞窟の中は地下水が凍っていて非常に綺麗だと、兄は語った。さつきは、鍾乳石から落ちる水滴が固まった氷の柱や、弱い明かりに浮かび上がる一面の透明な床といった幻想的な光景を想像した。
「で、冬の洞窟で気をつけなきゃいけないのは、静かに行動するということなんだ」
 兄は言った。何故静かにしなければいけないのかと問うさつきに、コウモリのためだと兄は答えた。
 騒がしいと、洞窟内のコウモリが冬眠から覚めてしまうらしい。目覚めたコウモリは逃げようとして飛び回り、冬眠用の体力を使い果たしてしまう、死んでしまうという。
「特に狭い所だと大変なんだぞ。飛んで来たコウモリが顔に当たったりしてさ。うぇって感じ。起きなきゃ良いんだよ、あいつら。起きなきゃ死なないんだから」
 兄はそう話しを締めくくった。
 起きなきゃ良いんだよ。自慰を見せられている時、単純なその言葉の連想から、さつきはコウモリのことを考えてしまう。色も形も様々なその器官だが、起き上がる様子だけはほとんど皆一様だと、さつきは気が付いていた。何だか場違いにゆっくりと起き上がる姿を見ている内に、さつきは一匹のコウモリになっている。騒がしい気配に、深い眠りから覚めたばかりのコウモリだ。さつきは自ら発した超音波が、二つの足で歩く奇妙な生物の形になって返って来るのを感じる。不安が波のように寄せて来る。奇妙な生物の集団は、段々とこちらに近付いてくる。居ても立ってもいられなくなり、さつきは全く光のない、真の闇の中に飛び立ってしまう・・・・・・。
 何度見ても珍妙なその器官を眺めながら、さつきはいつもコウモリのことを考える。

『コウモリであるとは、どのようなことか』
 鏡の中にその文字の連なりを見たのは、新しい彼氏がやはり自慰を見せつけようとしてきたことを、さつきが嘆いている時だった。
「もーほんと、ムカツク。何なのあいつら。私、男性不信だよマジで! 向こうの部屋行ってさ、良い感じになって、で、その後『さつきは見ててくれないか』だってやんの。目の前に私という女が居ながらだよ。もー!さすがにキレてさ、『壁に向かってやれば』っつって出てきちゃった」
 一息に捲くし立てた後、リンの持っているホワイトボードを見て、さつきはどきりとした。「コウモリ」の話しを、リンにした覚えは無い。誰にも話したことは無い、さつきだけの想像の筈だった。
『by、T・ネーゲル。哲学者』
 リンは続けてそう書いた。
『そういう名前の本があるの。面白いよ』
「えー?何何何、どういうこと?」
 話しの繋がりが見えずに、さつきは聞いた。
『コウモリは、超音波で物を見るの』
「うん、知ってる」
『でも人間は見ない』
「そうだね」
『もし、自分がコウモリになったと想像して』
「はいはい」
『その時、果たして本当にコウモリと同じ景色が』
「はいよ」
『見れるでしょうか?』
「うん?う〜ん・・・・・・」
 どうなんだ? とさつきは考える。成る程、確かに超音波で「見る」光景は、さつきが目で見る景色とは大分違うだろう。
 だが、さつきが自慰を見せられる度密かに思い描くコウモリになった自分は、妙にリアルだ。
 そのことが、さつきの返答を鈍らせる。さつきは今まで、闇に飛び立つコウモリの気持ちは、まさにあの通りだと思い込んでいただけだろうか。
 優しく肩を叩かれ、さつきは鏡の中に注意を戻した。
『男にも、女には無いモノがあります』
 いつの間に書いたのか、ホワイトボードの文字は変わっていた。
『自分でしてるのを見せたがるとは』
『どのようなことか・・・・・・』
 鏡の中でリンの手が鮮やかに動き、次の文字が浮かび上がる。
『知るもんかい!』
 さっぱりとしたリンの言葉に、さつきは思わず笑ってしまった。鏡の中のリンも、にっこりと笑う。
「全くだ。知るもんかって話しだよね。あいつら阿呆なんだ」
 一頻り笑って、気持ちがすっきりする。
『ところで』
 一段落が付いたところでシャンプー台に移るかと思いきや、さつきの話しはまだ続くようだった。
『店長さんが来たよ』
「え、マジで!?」
 さつきはあの夜、車で美容院の前を通る時に、リンの話しをしたことを思い出していた。
「あ、私そういえば話したわ。ごめん、迷惑じゃなかった?」
『全然。いい人だったよ』
 そこまで読んで安心したさつきだったが、次に表れた言葉を見て思わず声を上げてしまった。
『付き合うことになるかも』
「えっ・・・・・・」
『何回か呑んだんだ』
『で、コクられた』
「え?で、リンは付き合うつもりなの?」
『う〜ん、付き合ってもいいかもって』
「それは・・・・・・、おめでとう」
 半ば呆然としつつ、さつきは鏡に向かって祝いの言葉を呟いた。頭の中では瞬間的に、大柄で熊のような店長と、スラリとして日本人形のようなリンが、ホワイトボードを真ん中においてバーで酒を呑んでいる光景を想像している。次に、店長がリンに自慰を見せようとしている姿まで想像しかけて、慌てて打ち消す。
 いや、意外に似合いかもしれないけど、それにしてもあの話し聞いた後で・・・・・・。
 リンであるとは、どのようなことか。
 シャンプー台に移り洗髪の間に店長の人となりを話しつつ、さつきはそんな言葉を思い浮かべていた。

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