祭りだわっしょい!
 外国における日本の祭りの位置付けについて友人と話をしている時、興味深い見解をその友人から聞くことができた。友人は、外国にいる時、そこで行われる日本の祭りを見るのは、嫌だと言うのである。
 日本においては「リオのカーニバル」が行われている。
 いや、正確な名前がなんというのかは知らない。しかし、「リオのカーニバル」的な祭りが、日本の、確か浅草だったと思うが、そこで行われていることは比較的有名な話しだと思う。日本人があのキンキラの衣装を身にまとい、サンバのリズムに乗って街を練り歩くわけである。
 ならば、外国において日本の祭りが行われるということもありえるのではないか?
 そのような論旨で、その時の我々の会話は進んでいたのだった。
 その時友人はこんな風なことを言った。
「いやだなぁ、俺そんなの絶対見たくないよ」
 私はしばらく、その言葉の真の意味を理解できずにいたのであった。確かに、日本の祭りと、どの国にしろ、外国の都市の情景は必ずしもマッチしない。しかし、日本とその国の文化交流のため、相互理解のため、日本の祭りが行われるのはよいことではないのだろうか。そのような思いに、一時私は捕らわれていた。
 だが、友人の説明を聞くうちに、その考えを推し進める気持ちが、次第に萎えていくのが、自分にも分かるのだった。
 例えばパリの夕刻である。
 日中、市内の観光で歩き回り、ほっと一息つくために、オープンカフェでコーヒーでも飲んでいる場面を想像して欲しい。空は、雲も少し出ているが晴れており、まぁ、観光日よりといえるだろう。傾きかけの太陽がパリの建物の頭上にさしかかり、西日がシルエットを作り出す。その位の時間だ。大きな荷物はホテルに置きっぱなしにしてあり、比較的軽装である。服は綿のパンツにワイシャツ。動きやすいのが前提だが、せっかくパリに来たのだから、おしゃれ着の方が良い。連れがいるかいないかはどちらでも構わないだろう。観光案内を片手に、今日行った場所を思い返し、明日行く場所のプランを練る。連れがいる場合はその人と話し合い、いない場合はコーヒーのカップを片手に頭に思い描く。旅の間の、醍醐味のような時間帯である。
 そんな穏やかな時を過ごしている貴方の耳に、突如聞き覚えのある掛け声がどこからともなく聞こえてくるのである。
 …しょい!わっしょい!
 始め貴方は自分の耳を疑うだろう。まさか、ここはパリだ。何かの聞き間違いに違いない。そう思うはずである。
 だが掛け声は確実に大きくなる。近づいてくる。
 やがてその声が最高潮に達した時、突如として向こうの街角からそれは現れるのである。
 神輿だ。
 頭に鉢巻を巻き、揃いのはっぴを来た数十人のパリっ子達が、一心不乱に神輿を担ぎながら、近づいてくるのであった。もうすでに、拍子を取るためのピッ、ピッ!という笛の音さえも、貴方の所まで聞こえてくる。
 やがて神輿は、貴方の目の前の道路を通り過ぎていく。神輿を担いでいる男達は皆汗みずくで、一様に恍惚とした表情を浮かべていたのが、貴方には印象的であった。
 あっけに取られるパリの住人達を後に残して、その神輿が去った後、貴方はふと気になって調べてみた。あの神輿は、一体どこに行くのだろうか。
 手元の観光案内の本に乗っている地図で、苦労して貴方は調べた。そしてさらなる事実を知るのである。
 その道は、凱旋門に続いているのだった。
 そういった場面を友人と想像して、私は何とも言えない気持ちになってしまった。確かに、日本の祭りを外国でやるのはよいことのように思える。日本という国を、一面ではあるが知ってもらえる機会になるだろう。だが、その場面を部外者として見た場合の気持ちを想像した時、ある種不可解な感情に私が捕らわれるのも、事実なのである。
 そこはかとない嫌さ。
 無理矢理言葉にすれば、そういった類の言葉で表されるような気持ちに、その時私は陥っていた。
 どうなのだろうか。実際日本の祭りが海外で行われることがあるのだろうか。それはどういった祭りなのだろうか。阿波踊りなのだろうか。ねぶた祭りなのだろうか。それともだんじり祭りか。そしてもし、偶然に私がそれを見てしまったら、実際どういう気持ちになるのだろうか。
 外国における日本の祭りの位置付けについて、私の興味は尽きないのであった。
 一度、浅草のカーニバルを見たブラジル人の観光客に、話しを聞いてみたい気もする…。

To zakki

To top page