麺闘記
 不意に怒りが襲って来た。蕎麦を茹でている時のことだ。
 昼の十二時前で外には光が溢れていたが、六畳一間のこの部屋は一階にあり、日当たりが悪い。おまけにガス台は玄関の近くだった。窓とは反対の場所で、電気も点けていないので薄暗いもいい所だ。そんな中で蕎麦を茹でていた。
 平日昼間に蕎麦など茹でているのは、三ヶ月前に仕事を辞めたからだ。未だ先行きに当てはない。
 十二月だが、もったいないので暖房も点けていなかった。ジャンパーを着込んで、鍋の前に陣取っている。
 怒りの原因はたいしたことではない。鍋が吹き零れていたのだった。
 ほんの十秒前までは、ぐらぐらと良い感じで茹だっていた。だが、窓の外をちょっと眺めて目を戻すと、鍋の表面は小さな白い泡で覆い尽くされていた。あれよあれよという間に嵩が増し、溢れたお湯が幾筋か、鍋の外側を伝って滴り落ちた。シューという音が連続する。
 その音を聞いて、理不尽に怒った。
 この野郎、今までじっくり茹でた恩を忘れやがって。これでも喰らえ!
 そんな心の叫びと共に、手に持った菜箸を泡の中に突っ込んだ。だが、「ちょっと菜箸でかき回してやれば、空気が入ってすぐ引くさ」そんな思いを嘲笑うかのように泡は、後から後から湧いてくる。
 理不尽な怒りは、自分でもどうかと思う位膨れ上がる。もう憤怒だ。
 どうしてくれよう、このくされ麺めが!
 だが怒りを増しただけではどうにもならなかった。試しに蓋を閉めてみて、余計に泡を溢れさせたりする。選択肢が二つ浮かんだ。
 一つは火を弱める、もう一つは差水をするだ。
 一瞬で心は決まる。火を弱めるのなど、真っ平御免だった。もうそれは断固とした決意だ。こんなにはっきり決意したのは、生まれて初めてではないか。そう思える程の強さだった。棚を開け、手近なコップをむんずと掴む。
 蕎麦の精が現れたのは、まさにその時だ。
「なぁ、ちょっと待ってくれよ」
 湯気の中からゆらゆらと現れたそいつは、哀れッぽそうにそう言った。
「あんた今、差水をしようとしてるだろ」
 見れば見る程、変な奴だった。泡の中から一本の麺が立ち上がっている。その麺の先に、ぱちぱちと必要以上に瞬きする細い小さな目が二つ、よく動く口が一つ付いていた。よく見ると陽炎のように、熱気で揺れる空気に合わせて、姿が霞んだり歪んだりしている。呆気に取られて黙って聞いていると、そいつは甲高い声で長々としゃべり始めた。
「長い話になるから理由は言えないんだけどさ、そいつはちょっと困るんだよ。こっちにも色々あってさ、いきなりそんな冷たい水を入れられると、都合が悪いんだ。それにさ、いいこと教えてあげるよ。もし今君が差水をしたら、大変なことになるんだぜ。まず、あんたはこの先一生うだつが上がらない。なかなか仕事が見付からないし、やっと就職できても三流会社で万年平社員だ。その上奇病にかかる。毎日ほうれん草を五把食べなきゃならない病気でさ、現代医学じゃ治療ができないんだぜ。もしほうれん草を食べられないと、夜中にどうしても『ええじゃないか』を踊りながら近所を練り歩きたくなるんだ。そんなんだから、もちろん奥さんだってもらえない。それに会社も倒産するからさ、やっとの思いで買ったまだローンが残ってる山奥の家で、一人布団に潜り込みながら『ああ、あの時差水なんかしなけりゃ良かった』って泣く羽目になるんだ。だけど差水をしなかったらどうなるか、これはすごいぜ。今、あんたは広告のコンクールに応募しようとしてるだろ。あれがさ、大賞を取るんだ。あんたそういう才能があるんだよ。その後もう、来る仕事来る仕事大当たり。でCMの撮影で知り合った女優さんと結婚して、子供は二人、これがまた可愛い女の子なんだ。本とか映画のプロデュースなんかもする。会社を作って、これもうまくいく。四十歳で引退して印税生活。たまに気に入った仕事をやりながら、ニュージーランドでのんびり田舎暮らしだよ。ね、おいら精霊だからさ、蕎麦のだけどさ、そういうこと分かるんだよ。だから悪いことは言わない、今は差水なんか止めて、火を弱めておくれよ」
 そいつは一気にそこまで言って、口をつぐんだ。最後に一瞬、ニヤリとした笑いが浮かぶ。
 別段、差水でなければならない理由はなかった。蕎麦の精が言っていることが、本当かどうかは分からない。しかし、こんなものが見えること自体が異常なことだったから、言っている未来のことも、あながち外れていないのかもしれない。何より、差水をしようが、火を弱めようが、特に変わりはない。要は吹き零れが収まってくれればそれでいい。差水を止めて、損はない。
 だが、怒りがそれを許さなかった。

 少量の水で、泡は嘘のように引いていった。蕎麦の精もそれと同時に消えていく。何事もなかったかのように、煮え立つ水面が見えてくる。
「どうなっても知らないからな」
 最後にそう聞こえたような気がした。
 気が付けば、怒りもなくなっている。後には、妙に高揚している自分だけが残った。
 よーし、食ってやるぞ。
 そう呟いて、蕎麦をざるに上げる。

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