試作 〜あるいは、ある夏の日の認識スケッチ呆然編〜
 傾斜のある芝生の上に腰を下ろした我々に、そいつは懸命に何かを売りつけようとしているのだった。
 8月も半ばにさしかかった夕方は、まだ昼間の熱気を十分に残していたが、吹きぬける風が首筋辺りに、ひやりとした冷気をもたらしていた。
 背中に樽のようなものを背負ったその人物は、樽から伸ばしたホースから、何か液体を出しているようであった。紙コップに注いだその液体を、その人物は必死に売りつけようとしていた。しかもその人物は一人ではなかった。甲高い売り声でしばらく我々の周りを歩き回っていたその人物が立ち去り、ほっと一息をついた矢先、全く同じ格好をした人物が、再び現れるのであった。
 我々が座っている芝生の先には金網が張ってあり、その向こうでは数人の男が、向こうから転がってくる何かを熱心に拾っているのであった。
 一体これはなんなのだろうか。
 驚いている私を尻目に、私の連れは熱心にその男達を眺めているのであった。
「あのさ…」
 私が口を開きかけたその時、突然ピーという甲高い音が、我々の後ろで鳴り響いた。どうやらそれは笛の音であるらしかった。数人の揃いの衣装を着た男達が、突如笛を吹き鳴らし始め、ピーピーと、うるさいほどの笛の音が辺りに響き渡った。
 同時に、ボコッっという鈍い音がして、10Mほど離れた所で我々と同じようにして座っていた家族連れの女の子が倒れた。起きあがった彼女は、鼻血を流しているようであった。どうやら、上から何かが落ちてきたらしい。そして、さっきの笛は、それに注意を促すために鳴らされていたのだということを、私はその時になって初めて理解したのであった。
 恐ろしい。なんと恐ろしい所なのだ、ここは。私ははっきりと恐怖を感じた。
 私は上から落ちてくるものが苦手だ。そういうものが得意だ、と胸を張って言える人もあまりいないとは思うが、しかし私は、一般的な平均値より明らかにそういうものを回避する能力が劣っているのだということを、過去の経験から学んでいた。
 もういやだ。こんな所にはいたくない。
 そう思った私は、再び連れに話しかけようとした。しかし、それよりも早く、まるで気勢を先するかのように彼は言ったのである。
「やっぱすごいよねぇ。平気でここまで飛んでくるもんねぇ」
 なんということか、私の連れはまるでこの異常事態を肯定するかのようなことを、言うのであった。そればかりか、その語調には感嘆するかのような響きさえも感じられるのであった。
 驚く間もなく、次なる事態が起こりつつあった。我々の前に、一人の中年男がいつのまにか立っていたのだ。我々と金網の間には通路があり、そこに立って男は、何か言っているのであった。
「どうもすみません。目の前ですみません。申し訳ない」
 男はどうやら、我々の目の前に立つことを謝っているようであった。
 謝るくらいなら、そこに立たなければいいのに。
 私はそう思ったが、男は頑としてそこに立ち続けていた。
 そしてあろうことか、歌い始めたのであった。
 歌い始めたのは男ばかりではなかった。なんと私の連れまでもが男と一緒に歌い出したのだ。連れだけではない。周りにいる、我々と同じように腰を下ろしている人間達からも、その歌は聞こえてくるのであった。合わせるように、どこからか太鼓の音も聞こえてきた。トランペットもメロディラインを奏で始めた。大きな旗が振られ、中年の男は振り付けまでも踊り出す始末であった。
 世の中は私の知らない間に大きく変わる。そのようなことは過去に幾度も体験してきたことであったが、しかし今回の事態は、そういった諦観で語るにはあまりにも唐突過ぎた。あまりにも身近であり過ぎた。
 私にできることは、一緒になって歌うことだけであった。
 所沢球場外野席。そしてその日の西部は快勝だった。

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