調子に乗れ!
 「調子に乗るな」という言葉は何やらその響きの中に悪意が感じられ、あまり良い意味で使われることは少ない言葉であるが、そのことによって「調子に乗る」という状態まで悪印象を持たれるとしたら、それは大変な間違いなのではないだろうか。
 ある人物と、一泊の旅行に行く機会があった。
「え、俺はしゃべりと呼吸を一緒にやってるんで。むしろしゃべらないと呼吸できないんで。普通の人は息を吸って吐いて呼吸してますけど、俺はしゃべりで呼吸するんですね、ええ。だから寝ている間以外はしゃべってますから…。」
 その人物がそう口にした時は、始め冗談かと思われた。しかしそれがまぎれもない真実だと分かるのに、そう時間はかからないのであった。
 彼はよくしゃべった。車の中でしゃべり、途中によったインターチェンジでしゃべり、夕食を食べる時にしゃべり、夜寝る前にしゃべった。他の人物が眠りについたその後も、彼のしゃべりは続いていたのを、夢うつつながら私は記憶しているのだった。
 用事を済ませて帰途についた車の中でも、彼はしゃべり続けていた。済ませた仕事の疲れもあり、他のメンバーがそのハイテンションに付いていけなくなっていても、彼は一人でしゃべり続けているのであった。
 話しは彼が車で事故を起こしたという話題に移り、その現場を通って行こうという方向に発展していた。そのため車は箱根の峠を越える道へと入ったのだった。事故現場を大騒ぎしながら通り過ぎ、いよいよ小田原へと下る坂道に差し掛かる。だが異変が起こったのはまさにその時だった。
「あ、渋滞…。」
 その言葉を最後に車内は奇妙な静寂に支配された。始め私には何が起こったのかよく理解できなかった。それまであれだけ騒がしかった車内が、突如として静まりかえってしまったのである。渋滞の最後尾について動きまで止まってしまった車の、1400CCのエンジン音だけが元気よく聞こえてくるのだった。
 そこで私は気が付いてしまったのである。
 そう、彼は調子に乗っていたのだ。それまであまりに多くの言葉に圧倒されて、迂闊にもそれに気付かなかったのがいけなかった。彼の怒涛のようなしゃべりは、調子というものに乗っかって我々の元に届けられていたのだ。だが、それはすでに去ってしまっていた。浜辺に打ち寄せる波のように、すでに沖合いへて引いてしまっていたのである。
 我々の車は、まるで始めてのお見合いで「じゃぁ、後は若い二人に任せて…。」などと二人きりにさせられた後の和室のような沈黙と、電球が切れたように眠りについた彼の鼾を乗せて、じりじりとしか進まない渋滞の道に突入したのだった。
 そもそも一体「調子に乗る」というのは、どのような状態のことを指すのだろうか?改めて考えてみると、そこには壮大な謎が横たわっているのである。
 自分ではよかれと思って言った一言の下ネタで、その場が凍りついてしまった時、私は調子に乗っていた。椎名林檎の歌を絶叫しながら気持ちよく風呂に入っていて、「ん、なんか変だな」と思いながら頭髪にシャンプーをつけた瞬間、頭を洗うのが二回目だと気がついた時、明らかに私は調子に乗っていた。
 こうやって事例を集めてみると、だがおぼろげながら「調子に乗る」の壮大な謎の一端に触れることができるような気がするのである。
 すっとこどっこい。
 一言で言うならば、「調子に乗る」とはこういった言葉で形容されるような状態なのであった。
 幼い時「わ〜い、警察呼ぶぞ〜」と友達とふざけていて、救急車を呼んでしまった私は、あきらかに「調子に乗って」いて、そして「すっとこどっこい」であった。彼女との始めてのキスで、調子に乗って服の中に手を入れて胸を揉んで、張り倒されそうになった私の友人(友人ですよ、もちろん)はまぎれもない「すっとこどっこい」であった。
 「調子に乗る」、その謎の少なくとも一端に迫る言葉は「すっとこどっこい」である。だが「すっとこどっこい」を舐めてはいけない。「すっとこどっこい」は時に常人には思いも及ばないような偉大な行為を、人間にさせてしまうからだ。
 そんなことは分からないのに「地球は丸い」と言って、実際地球を一周して帰ってきたマゼランは「すっとこどっこい」だとは言えないだろうか?「鹿も四足、馬も四足」そう言って切り立った崖を「落ちて」いき、奇襲を成功させた源義経は「すっとこどっこい」ではなかっただろうか?そう、我々の思いもよらないことをする奴、それを人は「すっとこどっこい」と呼ぶのである。そしてそこに、私は巨大な魅力を感じるのだ。
 あえて私は言いたい。「調子に乗れ!」と。

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