義経ってやつは…
 問題は突風のような活躍の無意味さと、歴史の闇に横たわるものである。吉野山中において、私はそう確信するのであった。
 小さなお堂の天井を蹴破って外に飛び出す行為。それが一体どの程度のエネルギーと運動能力を要するのか私には俄かに測り難いが、それはまさに突風のような活躍であることは、疑いを差し挟む余地はないだろう。桜で有名な奈良県は吉野の山中、金峰神社には、かの源義経がまさに「天井を蹴破って外に飛び出した」という小さなお堂がひっそりと、だが確実に残されているのであった。
 神社の拝殿とは別に、森閑とした林の中にそのお堂はある。我々のほかに観光客の姿はなく、あまりぱっとしない小さなお堂ではあったが、すぐ横にある案内の看板を読めば、そのお堂こそが頼朝の手勢に追われた義経が隠れたという「蹴り抜けの塔」であることが分かる。
 平家討伐を成し遂げた義経を待っていたのは、しかし兄頼朝からの追討兵であった。義経の軍事的才能と人気を、頼朝は恐れたわけである(と言われている)。天皇から位を授かった義経に対し、源氏の棟梁である自分に無断でそんなことをするとは叛逆の意図ありとして、頼朝は兵を差し向け、追われた義経一党はここ吉野山中に潜伏したわけだ。歴史的背景を語るなら、こういうことになる。
 そしてこのお堂である。立て横だいたい10平米。高さは約5メートル。このお堂に義経は隠れたわけだが、やがて見つかり囲まれてしまう。外を取り巻く大勢の頼朝兵。一方真っ暗なお堂の中に隠れる義経。まさに多勢に無勢。どうする義経。そんな場面を想像しながら私はこの案内板を読んでいたのだが、次に意外な一行に遭遇して度肝を抜かれる羽目に陥ってしまった。義経は「このお堂の屋根を蹴破って」外に出て、難を逃れたというのである。さらりと書かれたこの一行に込められた事実に、しかし私は非常な驚きを隠せないのであった。
 それは人間には無理である。
 私は瞬間的に思った。いくら小さなお堂とはいえ、5メートルもの高さの屋根を蹴り破るなどということは不可能であろう。壁を途中まで登って蹴ったという考え方もできなくはないが、そんな不安定な体勢では到底屋根など蹴り抜けることはできまい。外からお堂を見ながら私が想像したのは、飛び蹴りをするような格好で床から一直線に飛びあがった義経が、屋根を蹴破って垂直に空に昇っていく姿であった。それではまるで格闘ゲームか漫画である。取り囲んでいた兵達もさぞや驚いたことだろう。そんな光景を見せ付けられたとあっては、義経を捕り逃すことも無理なからぬことと思える。
 まだある。
 同じ吉野山中に、吉水神社という神社がある。後醍醐天皇が南朝の皇居と定めた所であり、また太閤豊臣秀吉が本陣を敷いて盛大な桜の宴を催したことでも有名な場所であるのだが、義経とその妻、静御前が別れた場所としてもまたその名を残す、歴史ある神社でもある。
 行ってみれば分かるのだが、神社と言ってもその横に建物があり、日本最古という書院造りの間があったりして、なかなかに趣深い所である。庭には「見わたしの いよとき所」という、吉野の山々が見渡せる場所があって、こういう言い方もどうかと思うが、別れの場所としては私的に最高級のランクをあげてもいいのではないかと思われる、そんな場所なのである。
 時は雪降り積もる冬。まさに歴史の波に翻弄されたと言える二人は、自分達を引き裂こうとする運命を前に、束の間の愛惜の時を過ごしたのであろう。
「義経様…。」
「静…。」
 そこに言葉はいらなかったであろう。私の不確かな記憶が確かならば、この二人は新婚さんだったはずである。あ〜も〜どうぞおやんなさい、おやんなさい。心行くまで思う存分おやんなさい。思わずそう言ってやりたくなる、そんな場面であったのであろう。
 「吉野山 峰の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき」
 静御前が歌った歌である。舞の美しさが今に伝わる彼女のことだから、舞の一つも舞ったと思われる。まさに別れ!これこそ別れ!ザ・別れ!!そういった場面がそこに展開されていたはずである。
 だが、肝心の義経の方は一体何をしていたのか。そんな詩情溢れる別れの時に、もう片方の主人公はどういう行動を取ったのだろうか。誰もが疑問に思うはずである。
 馬に乗って、その前足を激しく大岩に叩きつけていた。
 何をやっているんだお前は。その事実を知った時私は、思わずつぶやいてしまっていたのであった。せっかくの恋人との、妻との惜別の時である。そんな無意味なことをしている位なら、もっと有意義なことをするべきだろう!思わず小言の一つも飛ばしたくなる。だが実際吉水神社には、義経がつけたという馬の蹄の跡(らしきもの)が、しっかり残されているのである。
 確かに、岩に蹄の跡を残すということは、すごいことである。いくら馬の体重があるからといって、常人では岩に蹄の跡は残せない。だが想い人との別れの時に馬に岩を踏みつけさせている義経の姿は、すごいというよりは何かしら不気味なものを感じさせずにはいられない。それはテスト勉強中に問題集に向かって怒っている人に似ている。その時の義経を想像すると、人間の心の奥底に潜む狂気を感じさせる何かについて、私は思いを寄せずにはいられないのである。
 さらに特筆すべきは、その時の弁慶の行動である。主である義経が馬に大岩を踏ませていた時、従である弁慶は何をしていたのか。
 岩に釘を打っていたのである。
 こちらもやはり実物が残っている。「弁慶力釘」と名付けられたれたその岩表面には、確かに釘の頭らしきものが2つ、見えている。打ちこまれた釘の周りにはひび一つなく、本当にそれが打ち込まれたものならば、確かにものすごい技術と力が必要であったことは想像に難くないが、しかし時と場合を考えると、そこには常軌を逸した光景が浮かんでくるのであった。
 しんしんと雪が降る神社の庭である。一人の青年は馬に跨っており、もう一人の大男は何やら岩を抱え、片手に金槌をもってうずくまっている。
「そいや!」「ひひーん!!」
 青年はおもむろに掛け声をかけると馬に前足を上げさせる。
「どうりゃー!」
 時同じくして大男の方は金槌を振り上げる。
 ズダーン!
 ものすごい音がして馬は掲げた前足を大岩の上に振り下ろし、大男は岩の上に片方の手で固定した釘を打ちこむべく、金槌のねらいを定めるのである。
「お止め下さい、義経様!」
 その時、書院造りの建物の障子が開き、美しい女が必死の面持ちで青年に向かって叫ぶ。だが青年は止まらない。
「そいや!」「ひひーん!!」
 カキーン!!
 青年は再び馬をいななかせ、大男はついに釘を打ちこむのであった。
 そういえば以前神奈川県の山中において、弁慶がつけたという拳の跡が岩に穿たれているのも見たことがある。またしても岩だ…。
 義経一行って一体…。
 義経討伐の命を下した頼朝は、その軍事的才能と人気によって自分の地位が脅かされることを危惧したためと言われている。だが、実際はどうなのだろうか。やたらに岩に跡を残したがる奴ら。恋人との別れより岩。そんな奴らが平家討伐という大業を成し遂げ、政治的権力を握ろうとしている。
 やはり問題は、突風のような活躍の無意味さと、歴史の闇に横たわるものなのである。

To zakki

To top page